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キャリアを語る会 春山

技術士がキャリアを語る会。

一年前にもこのテーマでお話ししていて、それも私は2回もしています。そちらはブログに上げていて、後でリンクポストしときます。今日はそれと同じ話をするのかと言うと、もちろん違います。一年。この一年は私にとって非常に大きな出来事がありました。そこをお話しするのと、そのためにはこれまであまり話してこなかった、個人で仕事、技術のコンサルをしていたけれどなぜ会社員に戻ったのかと言う部分に触れてみたいと思います。

 

まず、ざっくりとキャリアを振り返ると、2004年に新卒。1社目で7年ほど勤めて途中うつ病になったりしつつ技術者としての自信が全くない状態でした。技術系の仕事は私には無理だ、やめて違う分野で働こうと。例えば実家に帰って弁当屋さんを手伝おうかとか考えていたのですが、なかなか踏ん切りがつかず。そこで技術士に挑戦して合格したら技術者として頑張ってみよう、ダメなら諦めよう。と技術士に挑戦しました。

30歳くらいの時ですね。

技術士、一次試験二次試験と挑戦していく中で段々と自信が付いて1度目の転職をしました。この時は色々と理由はありますがどちらかと言うと逃げの転職。だと私は思っています。人間関係が嫌だ、仕事がつまらない、給料が低い。などなど。

特に仕事に関しては、資料作りばかりでものづくりをしている実感というのが全然ない。資料作ってはダメだしされての繰り返し。というわけで転職するのですが、ものづくりをやっているという実感が得られるところが良かった。

次に選んだところは機械器具設置業をやっている会社に行きました。ここはわかりやすいところで言うと港湾のコンテナクレーンのようなものを現地で組み立てるお仕事。でっかいプラモデルを作るような感じです。数100トンのものを扱い、何もないところに機械を組み立てていくわけですからものづくりやっているという実感はすごかったです。でもものすごく忙しくて、子供も2人いてまだ小さくて、うちは共働きで。もう少しプライベートの時間を確保したかった。他にももちろん理由はありますが、転職した。

仕事の面で言うと、まぁ当時は下請けですよね。設計がいい加減で苦労する。なんてことは山のようにあったし、ダメ出ししてこうしないとダメだと提案する事もよくあった。そうするうちに思ったんですよね。下請けの立場でいくら提案しても本質的には変わらない。ダメなやつはダメ。下請けが何言ってんだ、くらいの感じもあった。だったら私が発注者側に行って自分で設計やろうと思って転職しました。

3社目は生産技術で製造ラインを開発するお仕事。ある程度は自分で設計して時には試作して、仕様をまとめて発注する立場。狙い通りの立場に行き、プライベートの時間も確保できるようになった。この会社いた時、残業はほぼゼロでしたから。

でもこの会社も色々あって辞めて2018年にいよいよ独立開業するのですが、一つには自惚れるわけではないですがシンプルに言うと私は10のことができる。でも4とか5、あるいは2,3しかできない人もいる。設備の開発なんて機械屋といえど電気や制御の知識もないとダメですが、そちらは全然知らない。やろうとしない人、機械屋もいる。この時点で半分以下、せいぜい5しかできない。この機械屋さんは。10できる人が1人で頑張って10のことをやっても成果は10しかない。10と言わずとも2,3しかできない人が7,8できる。そういう人が増えれば、大きな事を言うと、それは組織とか会社という単位ではなく日本の製造業全体、将来にわたってメリットがある。と思って技術コンサルとして独立開業しました。

3年やっている間にセミナーもたくさんやりましたし、日刊工業新聞社さんの機械設計という月刊誌で連載も書いた。本も2冊出した。側から見るとすごい成果を出しているように見えるかもしれない。

だけど、お金にはならない。子供2人抱えてて稼げないとか、まあお話にならないわけですよ。とはいえメインのコンサル業で2年目に1200万くらい稼いだのですが、気づいたんですね。ほとんどの依頼は春山さんに教えて欲しいのではなくて、春山さんに問題を全部解決して欲しい。我々はお金を出すから全部問題解決して稼げるラインにしてください。トラブルの起きないラインにしてください。と、出資者は無理難題をおっしゃる。はっきり言ってそれやるのだったら、私がやるというのであればですよ、会社員でいた方が安定もしているし、基本は営業とかしなくていいですし、そっちの方がいんですよね。

誤解を恐れずにいうとそっちの方が楽なんですよ。私にとっては。そうじゃなくて、私にやってもらうのではなくて、皆さんがができるようになるために私がいるんですよ。というのが私が提供するもの。じゃないと社員じゃない私がいなくなったらまた皆さんできなくなりますよ。なので、そういう系の仕事、春山さん全部やってくださいという仕事は断っていた。この頃に引き受けた仕事に、設備のセンサーのオンオフをラズパイでログとって可動率を出すというシステムをですね、システム屋さんに作ってもらったはいいけれど、データがうまく入ってこない。システム屋さんはシステムに問題はないとしか言わない。困った。解決のために知恵貸してください。というのがあって、なぜなぜ分析をやって原因を絞ってどういうデータをどうとってどう分析するか。どう原因、真因と言ってもいいですけど、を特定するか。というのを指導して解決したことがあって。

そういう仕事なら、自分たちでなんとかしたいけれど分からないから手助けが欲しい、という事であればウェルカムだったんですけど。そういうのは全然なくて、春山さんやってください。設計してください。現地常駐でプロマネやってください。というものばかり。それを断ると全然稼げない。仕事がない。大げさかもだけど、製造業全体から「お前から教わることはない。」と拒絶されたような気持ちになりました。同世代でコンサルやってしっかり稼いでいる人もいるので余計に惨めな気持ちになりました。

それだったらということで、会社員で最低限の仕事だけやって自分の食い扶持だけ稼げばいいや。ということで機械設計者を募集していた会社に入りました。我が家は共働きなので私が1人でめっちゃ稼がないといけないわけではないですし、というかぶっちゃけ700万とか800万とか超えてくると税金ばかり増えて大して可処分所得は増えないんですよね。

だからはっきり言ってそれ以上は稼ぐ意味がないんですよね。2000とか3000とか突き抜ければ別ですけど日本企業で一技術者、機械設計者がそれは無理。突き抜けなくとも機械設計やっていればちょうどいい感じに稼げる。負荷もそれなりにちょうどいい感じ。私にとっては。もうそれでいいや。という感じでした。そんなこんなで再就職。

しばらくすると追い討ちをかけるようにTwitter中心にあっちこっちである人から誹謗中傷を繰り返されるようになって、それに追従する人も出てきて、発信活動が嫌になってアカウント名を変えて鍵垢にしてウシに篭るようになったんですね。ますます自分の食い扶持さえ稼げば後はどうでもいいやと思うようになって。

まぁでもこれもやっぱりTwitter上でですけど、私よりも若い技術者が、いろんな思いがあると思うんですよ。いろんな発信しているのをみて私ももうちょい頑張ってみようかなと思うようになった。鍵を外してアカウント名を本名に戻して、スペースでの発信、技術士のススメですね、を始めてみたりしたわけです。

そんな中で仕事はどうだったかというと、充実していました。ちょうどいいぐらいの難易度の仕事でちょうどいいボリューム。休みは休みだし、残業もそんなにないし、めんどくさい事もあったけど機械設計がメイン業務だし、給料もいい。現場の人たちも私からすればいい人多くて割と楽しく仕事してた。ここからですね。

 

今年の初めにあるプロジェクトで、現地での立ち上げを担当することになりました。詳細は省きますが、現地に行って物を確認したらまぁひどい状態だった。何故そんなことになったかと言うとプロジェクトを一貫して管理する人がいなかった。で、全部の皺寄せが最後の立ち上げ調整のところに来たわけですね。

1ヶ月以上フルにほぼ1人で機械を調整して回って工程管理やって仕様もまともには固まっていない状態だったので仕様をまとめて、やっとプログラム、制御系の全体を仕上げていく状態になって。もちろん一緒に行った人もいますがみんな制御屋さんなんですね。設備全体をいくつかのブロックに分けて担当割り振って調整のはずが、機械がまともに動く状態になっていない。配管ミスとか山のようにありましたからね。一つ一つ追うだけでも大変。それをなんとかほぼ1人で修正していった。現場を上がったら工程管理でガントチャートを毎日引いてイナヅマ線ひいて、設備全体のフローチャート書いて仕様をまとめて。という事をやりながら。

なんとかやっと制御系をまとめていける段階に持っていった。もはやゼロから作り直しレベルでそれも手が足りないので私も一部を担当してプログラミング、ラダーですね、をやって。

でもとりあえず仕様に沿って、私が作ったフローとエラーアラーム表とかですね、プログラム組めば終わりが見えてくるかなというところで流石に無理がたたってある朝に熱が出て起き上がれなくなった。

そのまま1週間、現地で寝込んで回復しないので帰宅することに。帰宅してからも回復したと言えるまで1ヶ月以上かかりました。まぁこんな目にあったらね、この会社でこの後も頑張ろうという気になかなかなれないわけですよね。で、寝込んでいた1カ月に色々考えました。

 

過去にもありましたが、炎上する案件ってマネジメントが全くされていないと言っていい状態なんですよね。今回の場合はそういう立場の人がそもそも最初からいなかった。いても必要な事を何もしていなくて気づけば炎上まっしぐら。

というところでヘルプに行く事もよくあった。過去にはね。製造業で必要なのはプロジェクトを適切に管理できる人だな。と。

少なくとも当時在籍していた会社に明らかに足りていないのはそこだなという考えに至った。

まぁそれは前から薄々と感じていた事ですけどね。その会社だけでなく。それに関しては会社の人とも話をした。

それと同時に転職活動もしていた。そこでこの先の自分のキャリアについて考えるわけですね。機械設計をやり続ける道を進むのか。もっと広い範囲でプロマネをやるのか。

ここの二つでめちゃくちゃ悩んだのですが、結局は機械設計をやり続ける道を選んだ。なぜか。理由は単純でそっちの方が好きだからですね。

前にも言いましたが、この年になってやっと私は機械設計が好きなんだと言えるようになった。

技術士機械をとって10年以上経っても総監を受けようという気が全く起きないのはそういう事です。ただ、今は機械設計だけをやってればいい。という気持ちではなく、これまでの経験で得た物をお返ししていこうという気持ちもあります。後輩には自分の持つ知識、ノウハウはどんどん提供しようと思いますし、社内では若手の教育とかにも協力する。

もちろん機械の設計もする。

そうやってこれからの40代のキャリアを積んでいこうと。そう考えています。キャリアを語る会。というのは過去のキャリアを語るのもいいのですが、でも我々にとってもキャリアというのはこれからもまだまだ続いていく。

現役世代ですからね。

だったら将来を見据えつつ自分はこの先の10年。

あるいは5年。3年。1年で、どういうキャリアを積んでいくのか。ここが最も大事だと思います。という事で今日のお話を締めさせてもらいます。

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