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技術士が自らのキャリアを語る会2春山(機械)

春山パート


[イントロ]

これから最後の私の話をしようと思うのですが、その前にちょっと時間を取らせてください。1分間私マイクオフにして黙りますので1分間ここまでの6名の方の話を皆さん自分の心の中で振り返ってみてください。

いろいろな気づきがあったと思います。思ったことがたくさんあると思います。それをぜひハッシュタグ「#技術士のススメ」カタカナでハッシュタグをつけて、こんなことが面白かった、あんなことが面白かった、こんなこともが聞きたかった、いろんなことをツイートしてみてください。

ここから1分間ちょっと時間取ります。はい、用意スタート。

 

1分後)

いろいろなお話があった中でいろいろ気づいたことが皆さんあるんじゃないかなと思うので、ぜひそれをハッシュタグ「#技術士のススメ」をつけてツイートしていただけると最初にも言いましたけども、スピーカーも人間なのでそういったフィードバックをいただけると、それはね、いいフィードバックでもこの話面白くなかったダメだったっていう悪いフィードバックでもそれはそれで全然いいんですよ。

そのフィードバックは、誹謗中傷はちょっとダメですけどね。ただこの話はちょっと面白くなかった、もっとこんな話を聞きたかったというご意見をいただけると、それは次の改善にもなりますし私としても次のスペースはこんなテーマでやろうというヒントにもなりますのでぜひ技術士のススメのハッシュタグをつけてツイートしてください。

 

はいというわけでここから私の話ですね。最初に申し上げておきます。今日のスピーカーの皆さんに15分でという枠でお話をしてくださいってずっと言ってましたけども、いろいろ話を厳選して削って削って削って削ってきたんですけども15分にまとまりきれなかったです。多分20分ぐらいお話をすると思います。少し長くなります。これを最初にお伝えして おきます。

ただその分、退屈はさせないのでぜひ最後までお付き合いいただけると嬉しいなと思います。よろしくお願いします。

冒頭に申し上げた通りこのスペースを始めようと思ったきっかけは機械設計という日刊工業新聞社さんの専門誌ですね、そこに私のキャリアが乗ったというところから始まっています。

で、私がキャリアを自分のキャリアをお話ししようとすると2つ欠かせない要素があります。

1つは転職。一つは資格。

一つめの転職については先ほど言った機械設計の中でそれなりにお話をさせてもらって

います。

資格に関しては前回のスペースで結構お話をさせてもらっています。では今日何の話をしようかということになってくると転職の話を少し深掘りする形でこれまで私がどんな仕事をしてきたか?どんなキャリアを積んできたか?という話をしようと思います。

2004年に群馬大学の機械化の修士課程を終了して新卒で会社に入りました。

1社目ではですね、生産技術に配属になりました。いわゆる生技ですね。

生技というと3つの役割が求められるんですね。それは個人ではなくて生技自体にです。

一つは保全。

保全というと例えば今ある機械とか設備がその設備が生産能力10あるとするとその10 を発揮できるようにメンテナンスとかしていくというのが保全の役割ですね。

もう一つは改善していく。今ある設備が生産能力を10持っているとしたらそれを10.1

する。10.2にする。ちょっとずつでも良くしていくというのが改善の役割ですね。

最後の一つは新設。新しく設備を導入するという、開発するをいう役割。

この3つの役割が生技には求められるんですよ。

 

で、この3つの役割がある中で私が最初に入った会社というのはざっくり2つに生技が分かれてたんですね。

 

一つは事業部付きの生産技術部で、そこは自分たちの事業で使う設備を保全・改善していくというのが彼らの役割なんですね。

でもう一つが本社付きの生産技術部。そこではですね、新しいものを開発していく新しい技術を取り入れて新しいラインや設備を開発するというのが求められる役割だったんですね。私は生技の中でも本社付きの生産技術部に配属になりました。そこで機械設計を担当することになっていくんですけども、仕事の内容としては23年目ぐらいまでは新しい案件新しい設備を開発するというのが結構ありました。

そもそもその会社はですね、インフラ系のものを作るメーカーで新しいことをどんどんやるっていう感じではなくて、どちらかと言うと保守的なものづくりをするメーカーだったんですよね。

なのでだんだんと新規案件はなくなっていって、部署自体が割と暇になったんですね。

なので3年目ぐらいからは他部署への設計応援に行ったりとかしてたんですよ。

 

そうなってくると仕事がもうつまらないなぁと。やりがいも何もないそんな日々を過ごしていて、仕事はそんな感じですし、もっとダメだったのは決定的に上司とソリが合わないっというのがあったんですね。これは突き詰めていくと上司と、というよりかは社風と私が合わないというところになっていくんですけれども、そうなってくると相性の問題であって誰が悪いとか何が悪いとかじゃないんですよね。

そういう状況にだったんですね。

唯一良かったのは休日。休日はもう土日祝日しっかり休めたし、3年目ぐらいになってくると残業もそんなになかったんですよね。

生産技術にいながら私は休日出勤なんてほとんどしたことなかったですからね。これ生産技術に配属されてる人、誰も共感できない話だと思います。まあそんな状況だったんですよね。

そんな状況にいるとどうなるかというと、状況もう一回整理しますね。

仕事はつまらない、上司と反りが合わない、反りが合わないということは評価されないから給料上がらないってことです。

で、その状況で休みだけはしっかりある。そうするとどうなるかというと将来不安になるんですよ。

ちょっと前にニュースにもなってTwitterでも話題になりましたけれどもホワイト職場を去る若者達っていうのが話題になりました。

まさにそんな状況だったんですよ。

めちゃくちゃ将来不安になったんですよ。20代でそんな状況になるとめちゃくちゃ将来不安になったから、転職を考え始めたんですね。3年目過ぎたぐらいから。

だけど踏ん切りもつかないんですよ。なかなか転職するっていうね。

きっかけはうつ病になったことです。うつ病になって6ヶ月会社を休みました。私。

6ヶ月会社休んで復帰したときに気づいたんですよ。会社は何も変わっていない。組織は何も変わっていない。何も変わってないということはこのままここにいたら私はまたうつ病になるなって思ったんですね。

そこで腹をくくったんですよ。転職しよう。ここから逃げ出そう。そのときの転職って私は

逃げの転職だったと思っています。

職場が嫌だ!仕事が嫌だ!上司が嫌だ!うだつが上がらないのはこの環境が悪いからだ!ということでここから逃げ出そうと思って、転職をやろうと腹くくったんですね。

 

いろいろあって当時は(自分は)技術者が向いてないとかいろいろ悩んだりもあったのですが、結局は技術者としてその辺は前回のスペースに詳しいんですけども、技術者として新しい会社に 転職することになりました

 

2社目の会社はですね、どんな会社だったかというと機械器具設置業という事業をやっている会社でした。

これはですね建設業の1つですね。

そこでですね2年目から営業所の専任技術者という立場で仕事をするようになるんですね。この専任技術者ってめちゃくちゃ責任重大です。具体的に言うとこの人がいないと(特定の)機械器具設置業という業態ができないというぐらい責任重大な立場で仕事をやることにな

ったんですけども、それはいいんですけども、その前入ってすぐ1年目。入ってすぐのときはめちゃくちゃ仕事この会社に行ったことを後悔しました。

なぜかというと雑用としか思えない仕事ばっかりやらされていたんですね。具体的に言います。

具体的に言うと現場に組まれた足場の単管の端っこにキャップをかぶせていくとか。安全のためにそれを延々とやったりとか。

あとはですね、例えば安全の注意喚起のために、何でしょうね、「足元注意」とか「吊り荷注意」とかそういう文言を考えて紙に印刷してラミネートして現場に張り出していく。そういうことを延々とやってたんですよね。

現場のハウスの掃除とかトイレの掃除とかもずっとやっていました。

で、めちゃくちゃ後悔しました。こんなことやるために今この会社に来たわけじゃないって。 めちゃくちゃ後悔したんですけども、当時の私の状況を言うと元々は京都の会社で仕事をしてて、結婚もしててマンションも買っててそこに住んでてもうすぐ一人目の子供が生まれるっていう状況で転職をして、京都を離れて千葉に来たんですよね。

そういう状況があったから、仕事がちょっと思ってたんと違うからといってまたここを辞めて転職して違うとこに行こうっていう決断には絶対にならないですよね。なので腹くくりました。

雑用って思うような仕事だけども一生懸命やる。これは雑用じゃなくて必要な仕事なんだと捉えて一生懸命やると。そうしたらだんだんといろんな仕事を任されるようになりました。

いろいろな仕事任されてそれを一生懸命やったらそこで成果を出して、次にもっと大きな仕事。それをまた一生懸命やることでさらに大きな仕事を任されるという。

そういうスパイラルが生まれたんですよね。

このとき初めて、働き出して10年目ぐらいですね。

初めて仕事が楽しいという感覚を味わったんですよ。これめちゃくちゃ大事なことだと思うんですよね。

雑用って思っちゃうようなこと、誰でもこんなことできるでしょ?雑用じゃないか、こんなこと俺がやることじゃない!と思うようなことでも一生懸命やってそこで成果を出してそこから始まっていろいろなことができるようになって、いろいろなことで成果を出して、より大きな成果を出していく。このプロセスがすごく面白いっていう感覚はすごく大事な経験だったと思いますし、今でもそれは大事だと思ってます。

 

でもこの会社も4年半で辞めちゃうわけですね。何がダメだったかというと仕事はそんな

感じですごく面白い、めちゃくちゃ大変でしたよ。もう吐き気がするぐらいしんどくて眠れない夜も過ごしました。でも仕事はトータル的に楽しかった。で、給料はめちゃくちゃ良かった。

30代にしたらかなりいい給料もらっていたと思います。

何がダメだったかというと忙しすぎたんですね。100時間ぐらいの残業するということもままあるような状況だったんですよね。

当時、私2人目の子供が生まれてそのときにどうしても私が休んで家のことをしなければいけない、という状況だったんですよ。

なので育児休暇を申請しました。その会社は当時まだ男性の育休実績ゼロでした。

多分、普通にお願いしますと言っても認められないだろうなという状況だったんですね。

なので私としてはもう認められなかったら辞めるしかない、という覚悟で申請をして上司に手紙書いたりしたんですよね。

まあいろいろあって2ヶ月の育休が認められました。めちゃくちゃありがたかったです。めちゃくちゃありがたかったんだけどでも育休明けて2ヶ月後に職場に復帰したら、職場って何も、当たり前ですけど変わってないですよ。やっぱり忙しいままなんですよね。忙しいままだけど私、当たり前のことを言いますよ。

2ヶ月の育児休暇は終わりました。だけど当たり前のようにその後も育児は続くんですよ。だから私の持ってる24時間という時間を会社に全振りするわけにはいかなくて家のこともやらなきゃいけない。そこの時間を確保しなきゃいけない。

というところになって、このときのファーストチョイスは転職ではなくて上司にいろいろと提案しました。もっとこういうふうにしたら効率よく働けるんじゃないですか?残業って減るんじゃないですか?もっとこういうふうにしましょう!ああしみましょう!といろいろなことを提案したんですけども、当時のその職場って過去最高益とか最高売上を出しているような状況だったんで私もそれに当然貢献してるわけですけれども、そういう状況だったので上司としては「それもそうだね」とは言うんだけど変わる必要なんかないんですよ。

組織はもう変わらないなっていうのは痛感した。

本当絶対無理だと思ったんですよ。変わるとしたら5年後10年後だなと。

それでは意味がないんですね。私はいま時間が必要なんですよ。会社はどうあがいてもいまは変わらない。変わったとしても510年後。私は変わってほしいのはいまなんですよ。

で、会社が変わらないんだったら私が変わるしかないなということで転職を決断したんですね。

転職した3社目でどうなったかと言うと、3社目は2年間いたんですけども、その2年間で多分トータル月の平均残業時間10時間いっていないです。

 

休日もしっかりと休めるようになりました。有給も月に1回以上の平均では取れるぐらいになりました。

充分プライベートの時間が確保できるようになりました。

 

ところで給料がどうなったかと言うと、そういう状況でも、残業や休日出勤がほぼなくなったんですが、前の職場の残業代を加味した年収より上がりました。

という感じで給料も良くなった、職場の環境も良くなった、では仕事はどうだかどうだったかというと、その会社での仕事というのは生産技術に戻りました。

生産技術に配属で、中途採用なのでこの職場、この部署のこういう職種ということがはっきりとして採用されてるんですね。

生産技術の中で 01の仕事。ラインの開発をする技術者を募集しますというところに入ったんですよ。

そこで私が最初に担当した仕事というのは、4年後にリリースする製品をターゲットにした生産ラインを開発するというものをやったんですね。

でそれを私は開発をめちゃくちゃ加速させて1年半後に立ち上げて現場に導入したんですよ。

ちょっとだけ自慢話になるんですけども、たった1年半の間で社長報告も3回か4回ぐらいしましたし、社長賞とかも貰ってるんですよね。従業員は連結で10万人超えるような会社の中で、ひょっとしたらほとんどの人が社長報告なんてする機会はないような状況なんだけど、1年半しかいないだけでそれだけのことをやってラインを立ち上げてっていうぐらいの成果を出したんですね。でラインを導入した現場は東北の工場なんですけども、そこで立ち上げ当時のそのラインの能力を直行率で言うと99.5%を 達成してて。

これはもう当初の目標をちゃんとクリアしてるところになるんです。

ねそうするともう立ち上げ01の仕事は終わっててここから次のフェーズに入るんですね。

その設備を使って製品を作っていく。そのための保全をするとか改善をするという次のフェーズに入ってるんですね。

そうなったときに現場の人に引き継がなきゃいけないんですけれどもなかなか新しいものを私がやりますという現場の人がいなくて。

みんな忙しいという理由で全然引き継ぎができなくてでずっと私が現場にいたんですよね。

 

現場にいた90%ぐらいの時間はほとんどぼけっと見てるだけ。なにかあったら対処するみたいなことをずっとやってて。

そのときに初めて気づくんですよね。私は生産技術関連をずっとやってきたけれども、その中でも01で 機械を作って立ち上げて導入するところが好き。その後の次のフェーズ保全とか改善とかそういうところはちょっと自分には向かないなと。

ちょっと違うな、ということに初めてここで気づく。

なのでこのままここで仕事するのはちょっと違うなっていう思いがあったのが一つと、あともう一つは東北の工場だったので、別に東北が悪いとかそういうこと言うつもりは全くないんですけども、ただ私は千葉に生活基盤ができていた。

かみさんは 千葉で働いてますし子供たちももう小学校に上がるとかそんな状況だったので、もし東北にそのまま転勤になるって話が、実はもう出てたんですけども転勤になったら100%そこに単身赴任で行くことになる。単身赴任で言ったら5年ぐらいそこにいて、そこから多分さらにその自分が作ったラインを海外に展開するってなって海外に一緒に行ってそこで5 年~10年をさらに費やしてそこから日本にポストがあったら帰ってくるみたいな感じが見えてきて。

そしたら帰ってきたらもう子供ら大学生とか、もう下手したら独立しますよという状況だですよね。

これはちょっと(私は)受け入れられない。それを受け入れるっていう人も全然ありだと思いますけど、私は嫌だって思ったからそれは受け入れられないと思ってこの会社を辞めた。当時いろいろご縁があって独立をしたんですね。

で独立開業して技術コンサルタントとしてやってたと。

3年間やりました。この辺の話は今日は飛ばそうと思うんですけど、一つだけ話しすると2年目で売り上げは1500万を超えました。

なのでお金を稼ぐということだけに特化すれば別に個人でやってても全然稼げたんですけど、私のところに来る依頼というのが基本的に当初想定していたものと違ってて。

こういう依頼がたくさん来るのであれば個人でやるよりも会社に所属して仕事した方がやりやすいなと思って再就職することを決めました。

3年目で再就職していまは会社員でやってるんですけども再就職する時に2つ道があったんですよね。

産業用機械のメーカーで機械設計をやるという道と、もう一つが化学系のメーカーで生産技術的な仕事をすると2つの道があったんですね。

ちょっと振り返ると1社目で生産技術というのは3つ役割があるんだなということが漠然とわかって。

2社目で仕事をするという上ではいろんなことがあるんだけども雑用というものも厭わずに一生懸命やっていくことで初めてメインの仕事がうまく回っていくってことを経験したわけですね。

3社目で生産技術に戻ってそこで初めて1社目でに気づいた3つの役割ですね、生産技術の3つの役割の中でも最初 01で機械を設備を作るところが私は好きだということにやっと気づくんですね。

なので再就職するときは生技に行くか機械設計かってなったときに迷わずに機械設計をやるという結論になったわけです。

40過ぎてやっと「私は機械設計が好きだな」とでこの機械設計というものをずっとやっていきたいんだっていうことを言えるようになったし自覚するようになったんですね。

じゃあ機械設計の機械って何ですかって話で、車ですか?飛行機ですか?この辺も機械ですけれども、そうではなくて私の場合は産業用の自動機。いろいろなワークがある中でどんなワークをどういうふうにハンドリングしてどういうふうな処理をしてどういうふうな組み付けをしてどういうふうに払い出していくか?という一連のフローを考えて、そのフローを実現する機構を考えて、実際に図面を描いていく。組立図を作って、組立図からバラして加工図を描いていく。加工図を描くときもどんな加工にしようかなどんな素材を使おうかなどこに原点をとってどういうふうに寸法を入れていけばやりやすいかな?というのを考える。

一連のプロセス。

ここまでの一覧のプロセス全てどこをとっても私は好きなんですよね。ということをやっと言えるようになったんですよね。

ずっとこれコンプレックスだったんですよね、大学生のときの私。

群馬大学にいたんですけども群馬大学の機械科で当時は頭文字Dが流行っていてみんな車が好き。車好きで将来は車関係の仕事をやりたい!とみんな言っていたんですよ。

私そんなこと一切なくて何もなくて。

働き出してからもずっとなんとなく漠然と機械が好きというだけの思いがあって。

仕事をしていたんですけども、じゃあそれ(機械って)何だ?って言われたら何も答えられない。

なんとなく惰性でやってきたんだけども、やっと40過ぎて機械設計が好きだなって言えるようになったと。

それは今までいろいろなことを経験したから、私はそれが言えるように。私はですけどね。最初からある人はもう羨ましいと思います。

私はそれが言えるようになたっのが40過ぎてるねっていうところで。

私の話はごめんなさい長くなりましたけども以上にしたいと思います。

ありがとうございます。

 

(アルエ)

頑張ります。

いやえこの 僕の師匠は春山さんなんであのはい何

でしょう どういう思いを受け付けるかわからないけど、僕の面白いは面白いものだから頑張りますけど。

 

 

はい、もう一回スペース立ち上げるのでそこでもう一回お話ししましょうか。このままちょっと私の話が長いというのががありつつ、予定時間を押してますので一旦ね。

このスペースはアウトロに入ってお開きにしようと思います。

 

 

以上

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